2010年8月7日土曜日

尊厳生 延命治療は止めて下さい

NPO「生きがい大阪」での講演レジメです。
同様の内容で、機関誌(9月1日出版予定)にも掲載される予定です。



尊厳生:延命治療は止めて下さい

1.    マイノートの紹介 三鷹市でのセミナー経過紹介
健生26期 東京で「福祉と生きがいを考える会」を結成
介護を中心とした勉強と出版、セミナー活動
冊子「介護はとつぜんやってくる」「介護を受ける前に」「マイノート」出版
 
2.      マイノート書き方セミナー 東京三鷹市を中心に20数回 600名程
死が近づいてきたら書くもので、記入するには早過ぎる考える。
死後のことは考えたくないのだ。
マイノートの半分以上は貴重な人生の残り時間を自分らしく生きるための宣言書である。

3.      マイノートの構成は19番生きている自分がより良い老後を過ごすため
10番終末期の自分のため、意に沿わないことは嫌だと言っておくため。
1118番残してゆく家族のため。
肉体が衰えて、介助や介護が必要になるのは仕方がない。家族にすべてを委ねられる人は良いが、他人の世話になることの方が多い。

4.      居宅介護や介護施設のお世話になる時、「私とはどんな人?」かを解ってもらえているのと、そうでないのとでは大きな差がある。
人は肉体だけではない、7080年生きてきた人生だから、大切にしている想いや記憶がある。
人生の大半を費やしたのは何なのか、好きな食べ物は、趣味は、気持ちが良くなることは何、音楽は、一番大切に思っていることは、などなど
配偶者でも答えられないことも多い
5.      老衰が進んでくると、誤嚥を起こすようになる、食事が流動食に変わる人もいる。流動食は美味くない、食べなくなる、それを施設では、短時間のうちに何とか食べさせようとする。ヘルパーさんの忙しさがそれに輪をかける。
まるで餌を与えられているようだ。だんだん食べなくなってくる。
そうすると衰弱が進むので、胃への挿管の段階になる。
管から高タンパクの液体を胃に直接流し込む、栄養は十分なので本人は元気になる。でも、これが延命治療の始まりである、知らないと家族も、それが延命治療の始まりとは思わない。
胃への挿管は苦しい、介護されている人は無意識の管を引き抜こうとする。介護側は阻止するために場合によっては、両手をベッドに縛る。

6.      医療現場の医者や看護婦は延命の方法として、食事が取れなくなると挿管を始める。
介護現場の人たちは必ずしもこのような方法に全面的に賛同しているわけではない。
東京三鷹市で、望まない延命治療を病院や施設で受けながら迎える死から脱却することを目指す「三鷹 自分の死を考える集い」がある。
主宰は、看護婦でケアマネージャーの醤野良子さん。彼女が集いを始めたきっかけは、看護婦の経験にある。骨がもろくなった老人の止まりかけた心臓を肋骨の折れるのも構わずマッサージを続ける。尿を出すための管や、胃への挿管など次々に装着してひたすら延命に躍起になる医療の実態を知り、「これでいいのかと悩み」病院を辞め、今は介護施設で働いている。
7.      「マイノート」の主張である、自分の人生は死ぬまで自分の意志の通りにする、そのための宣言書というコンセプトに、醤野さんも賛同し、今年度から共同活動が始まった。
まずは、マイノートの最初のページに「私は延命治療を希望しません」とはっきり書いて、署名捺印をしておく。これがスタート
施設や病院で、食が取れなくなると医者はすぐ胃への挿管をしようと言う。その時、本人がはっきりと意識がなければ言うがままになる、家族も「挿管をすれば元気で長生き出来ますよ」と言われれば、その気になる。苦しい目に会うのは自分じゃないから、そして親の長生きは子供の願いだから、OKしてしまう。
次の段階は胃ろうだ。胃ろうとは体外から胃内腔へ向けて、皮膚皮下組織・胃壁を貫通した穴に、栄養チューブの一端を体外へ、他の一方を胃腔内に留置する。 栄養のためには水分・食餌を体外から注入する。嘔吐に対しては、チューブを開放して、胃内腔を減圧する。
8.      胃ろうまで来てしまうともう元に戻れなくなる。ベッドに寝たきりになり、食事は直接チューブから胃へ流し込まれる。確かに寿命は延びるかも知れない。でもそれは本人が望んだ人生最晩年の生きたかった姿だろうか。
昔の老人は徐々に衰弱してゆき、枯れてくるので随分体重が軽かったそうだ、今は亡くなるまで顔色もよく、体重も減らない人が多いそうだ。
医療側の延命の論理に勝つ方法は唯一、本人がはっきりと延命治療を拒否することだ。書類があれば家族はそれを証拠に医者と話せる。

9.      延命治療拒否の次に来るものは ?
さて、無事延命治療を拒否したとすると、当然、誤嚥の危険も多くなる。ただ、誤嚥は食事だけで起こるものではなく、つばでも起こるのだ、タンが溜まっても起こる事がある。
食事量が減るので、衰弱は進むだろう、衰弱がひどい場合は、幹静脈への点滴もするが、いずれにせよ、老衰がすすむ。
延命治療をしないので、最後の段階に差し掛かる。
その状態でも、本人の思うとおりの生活を確保することは出来るのだろうか。現在の介護施設や病院では望むべくもない。
本当の人生の最終幕を自分の思うとおりに下ろすには、どうしたら良いのだろうか。

10。 マイノートで延命治療を拒否する宣言を残すことはできるが、その先に
    る時間を過ごす場所は有るのだろうか、誰が一緒に過ごしてくれるのだろ
    うか、誰がケアーを担当してくれるのだろう
私達は、それは、ホスピスだと考えている。ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指した。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。教会で看護にあたる聖職者の無私の献身と歓待をホスピタリティ (hospitality) と呼び、そこから今日の病院を指すホスピタル (hospital) の語がでた。歴史的には、ホスピタルもホスピス同様に、病院だけでなく、孤児院、老人ホーム、行き倒れの収容施設なども指した。
日本ではホスピス病院はターミナルケアとして、末期ガン患者やHIVの患者に対する看護を提供してきた。とくに重篤な病状や疾患がなくとも、老衰により死期に面した高齢者の処遇を巡って、在宅もしくは病院または介護施設のいずれであれ、そのあり方について議論されている。
主に延命を目的とするものではなく、身体的苦痛や精神的苦痛を軽減することによって、人生の質、クオリティオブライフ(Quality of LifeQOL)を向上することに主眼が置かれ、医療的処置(緩和医療)に加え、精神的側面を重視した総合的な措置がとられる。
最近では、在宅ホスピスをサポートする医者、看護婦、ケアマネージャーなどのチームでこのようなサービスの提供が始まっている。

尊厳死と言う言葉があるが、私たちの主張は、死ではなく、生である。高齢になって、延命治療で他人に委ねた「希望しない生」ではなく、尊厳をもって自分が選ぶ最後の生き方の主張、それを「尊厳生」と呼びたい。

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